Share

第10話 契約婚約の条件①

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-07-03 06:00:30
 征臣は封筒を、私の前へ静かに置いた。

 私はそれを受け取った。逃げるためではなく、逃げないために。

 封を切る音が、客室の中で妙に大きく聞こえた。

 中身は一枚の通知書だった。母の遺品、帳簿、指輪、その他白鳥家に属する財産を不当に持ち出したため、速やかに返還を求める。そんな内容が、丁寧な言葉で並んでいる。

 丁寧な文章の下に、もう一枚、手書きのメモが挟まっていた。父の字ではない。丸みのある、柔らかく見せるために整えた字。

 お姉様が意地を張ると、皆が困ります。莉々花は怒っていません。戻ってきてください。

 皆の前で、ちゃんと謝ってください。

 私が、何を。

 メモの端には、薄い香水の匂いが残っていた。砂糖を焦がしたような甘さ。紙にまで自分の匂いをつけるところが、莉々花らしかった。

 丁寧な言葉ほど、時々よく切れる。

 最後に父の署名があった。

 白鳥清隆。

 署名の癖は昔と同じだ。鳥の字の最後の払いだけが少し長い。母が「見栄っ張りの払いね」と笑っていたことを思い出す。

 便箋を机に置いた。

「鷹宮さん」

「征臣で構わない。……君にだけは、そう呼ばれたい」
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた   第148話 高城家の古い宿帳

     研究棟へ入る準備の途中、蓮が一冊の宿帳を持ってきた。 表紙は湿気を吸って波打ち、ページの端が茶色い。高城旅館のものではなく、父親が運送業者向けに管理していた仮眠所の記録だという。 母が亡くなる前夜、三人の名があった。 白鳥菜月。 高城和臣。 榊原紗英。「紗英さんも泊まっていた?」「署名が本人のものかは分からない。部屋は使われてる」 蓮が指したのは三〇一号室。母は三〇三。間の三〇二だけ、宿泊者名の部分が細長く破り取られていた。 紙を斜めから照らすと、裏面に鉛筆の圧痕が浮いた。 Kから始まる名字。「親父じゃない。榊原の秘書にも該当者はいなかった」 母の告発原稿から消えた宛先。晩餐会で見つけたメモ。破られた宿帳。 Kは、母が最後に頼ろうとした人かもしれない。 ページの間から、タクシーの領収書が落ちた。乗車地は研究棟、降車地は高城仮眠所。午前一時十二分。「紗英さん以外にも、車で来た人がいる」 彩花さんが乗務員番号を控える。 蓮は父親の手帳を開き、同じ時刻のページを探した。 〈菜月さん、青い箱。女一人、男一人。澪ちゃんの写真を預かる〉 写真、という字のところで手が止まった。「どんな写真でしょう」「家中探した。でも、まだない」 征臣は破られた欄へ指を近づけ、紙の繊維を見ている。「三〇二の鍵は」 蓮が古い鍵箱を出した。木の枠に部屋番号が並び、三〇二だけが空いている。 B3の鍵を当てると、長さも溝の形もよく似ていた。偶然の範囲かどうかは、鑑定しなければ分からない。 三〇二号室の欄だけ、水滴の跡が残っている。雨に濡れた手で押さえたのか、飲み物をこぼしたのか。輪の中心で鉛筆の線が滲んでいた。 鍵箱の裏板を外すと、薄い紙片が幾つも落ちた。返却タグ、部屋番号のメモ、破れた封筒。その中に、〈三〇二〉と書かれた青い紙がある。 裏面には電話番号。 当時、県の医療監査室へつながっていた番号だった。担当者は神谷圭介。 K先生。

  • 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた   第147話 寄付者名簿の空白

     美術館を出ると、征臣が車寄せの影から歩いてきた。約束した線を越えずに待っていたはずなのに、私の顔を見た瞬間だけ歩幅が少し速くなる。「無事でよかった。中で何かあったか」「車で話します」 答えると、彼は質問を重ねず、私の鞄へ一度だけ目を落とした。中の鍵の重さまで見抜かれたようで、持ち手を握り直した。 記者はまだ階段の下にいる。私は鞄の口を押さえたまま歩いた。中の鍵が鳴らないようにするだけで、肩へ余計な力が入る。 車のドアが閉まった途端、張っていた肩から力が抜けた。「征臣さん」 顔を見たら、用意していた説明が出てこなかった。代わりに、シートの上にある彼の手を握った。 征臣がこちらを向く。「少しだけ、このままで」 握り返す力は、思ったより強かった。「待っていると、ずいぶん長く感じるな」 責める声ではなかった。待っている間、この人も怖かったのだと分かった。「私も、早く会いたかったです」 言い終えるまで顔を見ていられず、繋いだ手へ視線を落とした。 しばらくして息が整い、私は鞄を開いた。ナプキンに包んだ鍵と母のメモを、二人の間へ出す。 征臣は〈B3〉の刻印を確認し、秘書へ研究棟の旧設計図を調べるよう指示する。別の車から蓮と彩花さんも合流し、後部座席の間へ晩餐会の冊子が広げられた。 母のメモには、三、十一、四十七。「ページ番号なら」 彩花さんが十一ページを開く。寄付者名簿の三列目、四十七番だけが空白だった。 前後は年代順に並んでいる。空白の位置は、母が共同事業へ関わった年と一致した。 紙を光へかざすと、印刷面に浅い凹みがある。 菜月。 完全な文字ではない。二つの輪郭だけが、消した跡のように残っていた。「版下から抜かれています」 蓮が撮影し、角度を変えてもう一枚記録する。 宗一郎は、記録を整理したと言った。 発起人から寄付者へ。寄付者から空白へ。母の肩書きが一段ずつ薄くされ、最後に残ったのは、疑い深かったという他人の説明だけだった。 私は鍵を掌へ

  • 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた   第146話 微笑む会長

     鍵へ手を伸ばす前に、壇上の宗一郎と目が合った。 ほんの一瞬だった。けれど、彼の笑みは、私の足元に何が落ちたのかまで知っているように見えた。 紗英は正面を向いたまま、唇だけを動かす。「拾って」 私はナプキンを落としたふりをして屈んだ。「あなたのものですか」「私が持っていたら、出る前に見つかります」 青い糸のついた鍵は古く、頭の部分に〈B3〉と刻まれていた。存在しないと案内された、研究棟地下三階。 ナプキンで包み、鞄の底へ入れる。金属が口紅のケースに触れ、硬い音がした。近くの客が振り返ったが、紗英はグラスを持ち上げて視線を遮った。 宗一郎の挨拶が終わる。 各テーブルを回っていた彼は、私たちの前へ来ると、空いた手を母の椅子の背へ置いた。「座り心地はいかがですか」「母は、この席で何を見つけたんでしょう」「昔のことです。すべては覚えていません」 目元の皺も、声の柔らかさも変わらない。「母の性格は覚えていらしたのに」 宗一郎はワインの向こうから私を見た。「人は、事実より印象を残すものですよ」 視線が胸元へ落ちる。「その鈴も、菜月さんが大切にしていた」 母のものだと知っている。けれど、いつ、どこで見たのかは言わない。「母が使われた薬については?」 隣席の会話が止まった。フォークが皿へ触れる音だけが残る。 宗一郎は声を落とさなかった。「医療判断は担当者に任せていました」「研究棟から運ばれた薬でも」 紗英の指がグラスの脚を滑った。 宗一郎の目が娘へ移る。「白鳥さんはお疲れだ。別室をご案内しなさい」 休ませる、という形で席から外すつもりなのだ。 私は椅子を引いた。「帰ります」「まだ料理が残っていますよ」「母も食べなかったそうですから」 笑みは残った。目元だけが、初めて動かなかった。 出口へ向かう背中へ、宗一郎の声が届く。「菜月さんは最後まで娘を守ろうとし

  • 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた   第145話 母の席

     乾杯のあと、財団の沿革をまとめた映像が始まった。 建て替えられた病棟。治療を受けた子どもたち。寄付者の名前が光の中を流れ、最後に創設期の一覧が映る。 白鳥菜月。 母の名の横には、〈共同事業発起人〉とあった。 手元の冊子をめくる。これまで公表されてきた資料では、母は一寄付者としてしか記録されていない。発起人という肩書きは、どの書類にもなかった。「母は、財団の事業を作ったんですか」 宗一郎はワイングラスを置いた。底がテーブルへ触れる音だけが、妙に明瞭だった。「初期に意見を頂きました。若い方らしい、理想の多いご提案でした」「なぜ肩書きが変わったんですか」「記録は、事業の実態に合わせて整理されます」 消した、とは言わない。 隣から、皿へ向けられた視線を感じた。「召し上がらないのですか」 紗英だった。「食欲がありません」「菜月さんも、この席で同じことをおっしゃいました」 フォークへ伸ばした指が止まる。「いつですか」「亡くなる一か月ほど前です。顔色が悪くて、料理にはほとんど手をつけなかった」 病気で判断力が落ちていたと語った人が、その夜の母の皿まで覚えている。 ナプキンを膝から外すと、縫い目の内側で硬いものが指に当たった。周囲の視線を避け、二本の指で薄い紙を引き出す。 古いメモ用紙だった。 母の字で、数字が三つ並んでいる。 三。十一。四十七。 椅子の傷、映像に戻された肩書き、グラスの底の青い線。誰かが、母の残したものをこの席へ集めている。 紗英の視線が手元へ落ちた。「何かありましたか」 紙を掌へ畳み込む。「ナプキンの糸が出ていただけです」 声に笑みを混ぜる。紗英の視線は一度だけ私の手元へ落ちた。それでも、何も聞かなかった。 メモの末尾に、一文字だけある。 K。 母の告発原稿から削られた宛先と同じ文字だった。 照明が落ち、壇上の宗一郎が医療支援の未来を語り始める。「誰もが

  • 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた   第144話 財団の晩餐会

     榊原財団の晩餐会は、美術館を貸し切って開かれていた。 白い石の階段。天井から細く垂れる照明。歴代理事長の肖像画の間に、寄付を受けた病院や施設の写真が並ぶ。救われた人々の笑顔が、同じ大きさの額へ整えられていた。 車を降りると、報道陣のライトが一斉に向いた。「白鳥家の不正について、追加の告発をされるのですか」「鷹宮副社長との婚約は継続していますか」 母の名前は出なかった。家と男の話だけが、階段の下から追ってくる。 足を止めず、ガラス扉の内側へ入った。背後で扉が閉じ、フラッシュの白さが薄くなる。 振り返ると、車の横に征臣が立っていた。約束した位置から先へは来ない。通りの向こうには蓮の車、館内の警備室には彩花さんがいる。 受付で招待状を渡す。「白鳥澪様。お待ちしておりました」 名簿にも席次表にも、家の肩書きはなかった。私の名前だけが印字されている。 係員の後ろを歩きながら、壁の写真へ目を走らせた。寄付者たちの後列に、母がいる。半分ほど別の人の肩に隠れ、説明文に名前はない。 足を止めると、係員の靴音も止まった。「この写真は、いつのものですか」「お席へ着かれたあと、ご案内いたします」 答えではなかった。 私は端末を出さず、位置だけを覚えた。入口から左へ三枚目。白い柱の横。写真の端に、細い影が落ちている。 係員は一歩先を歩き始めた。私はその背中から少し距離を置いて続いた。 会場中央の円卓には榊原宗一郎、その右隣に紗英。左側だけが空いている。「こちらです」 椅子を引いた係員が、声を落とした。「菜月様が最後にお座りになった席です」 背中を撫でる冷気は、館内の空調のせいだけではなかった。 紗英が立ち上がる。「約束しましたから」 椅子の背には、小さな青い布が結ばれている。母の図案帳に描かれた鈴と同じ色だった。 すぐには座らず、テーブルの下へ目を向ける。椅子の脚に細い傷が幾つもあり、何かを繰り返し取りつけたように同じ高さで並んでいた。 指を近づけると、金属だけが冷

  • 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた   第143話 選ぶのは私

     晩餐会へ出席するかどうかを決める会議で、意見は三つに割れた。 相沢は招待状そのものが誘導だと言い、彩花さんは内部資料へ近づける機会を捨てるべきではないと主張した。蓮は、榊原側が私を人前で取り乱させ、母と同じ「不安定な女」に仕立てる可能性を指摘する。 征臣だけが、会場図の上へ指を置いたまま黙っていた。「あなたは?」 私が聞くと、視線が上がった。「行かせたくない」 部屋の空調音が、急に大きくなる。 以前なら、そこで話は終わっていたかもしれない。警備上の判断、という名前をつけて。 征臣は会場図を閉じかけ、手を止めた。「止めても、君は行くんだろう」「行きます」 母が最後に座った席を見たい。榊原家が何を見せ、何を隠そうとしているのか、自分の目で確かめたい。 そこまで説明すると、蓮が腕を組み直した。「俺も入る」「招待は一名です」「鷹宮側の同伴者で通す」 征臣の声が重なった。 二人が会場図へ身を寄せる間に、私は招待状を手元へ引いた。「中には、一人で入ります」 三人の顔が上がる。「外にいてください。連絡も取れるようにします。でも、会場で誰かの婚約者や代理人の席へ座るのは嫌です」 自分の名前で届いた招待状だった。罠でも、その名前まで誰かの肩書きへ戻したくなかった。 相沢が危険性を説明し始める。私は遮らず、最後まで聞いた。警備導線、監視死角、退出時の合図。聞いた上で、招待状を鞄へ入れた。 征臣の顎がわずかに固くなる。「入口までは行く」「……はい。そこまでは、お願いします」「出る時は連絡しろ」 命令に近い語尾だったが、会場へ入るなとは言わなかった。 退出の合図は、銀鈴を二度鳴らすことになった。一度なら問題なし。二度で迎えに来る。鳴らす余裕がない場合に備え、母の指輪の内側へ小さな発信器もつける。 装着すると、指輪が以前より重く感じた。「重いです」 征臣の指がすぐ留め具へ伸び、途中で止まった

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status